岡本隼人の生い立ち 〜トレーナーを目指すまで〜

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パーソナルトレーナー岡本 隼人プロフィール

 

岡本 隼人 1982年 5月1日生 東京都江戸川区出身   182cm   85kg

 

小学校2年生の時に父の影響で野球を始める。中学の時に、腰椎椎間板ヘルニアなどの多くの怪我により医者に野球をやめる事を勧められる。

騙し騙し野球を続け、高校の時にチームの方針で、ジムに行きトレーナーについてもらう機会を得てトレーニングと出会う。そこから、カラダが変わっていく様、カラダの機能が良くなっていく様を目の当たりにした。

ヘルニアによる腰痛も改善され、カラダのパフォーマンスが変わり、野球を続ける事が出来たトレーナーとの出会いが僕のトレーナーを志したきっかけとなりました。

高校を卒業後、カラダについて学ぶ為にメディカルトレーナー専門学校に進学。

 

卒業後、トータルワークワウトに入社。全店舗で一番多くの指名を頂き、アスリートから著名人など数多くを担当するなど、数多くの経験を積む。

フリーランスのパーソナルトレーナーとして活動を開始、トップアスリート指導や、BJリーグのバスケットボールチームに帯同など活動の幅を広げる。

ミス・ユニバース・ジャパン神奈川・埼玉大会公認ジムDisport Worldでアスレチックトレーナー、パーソナルトレーナー、2017ミス・ユニバース・ジャパン神奈川・埼玉大会 公認ジムとしてジャンル問わず幅広くクライアントのニーズに応えるトレーナーとして活動。

 

GQ JAPANによるGQ Videoのエクササイズのシリーズ動画にも出演・演出なども行う。

 

トレーナーを目指そうと思ったきっかけ

小学校

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小学校入学時

僕は父の影響で小学校2年生から少年野球を始めました。

父も母も身長は高く、僕自身もずっと大きかったです。

小学校6年時は176cm 72kg くらいだったと思います笑

 

 

小学校の頃は背の低い高校生より大きかったので、バスや電車を子供料金で乗ると、よく運転手さんや、駅員さんに怪しい目で見られたものです笑

 

恵まれた頑丈な体だったので、小学校の時に球速は100km/hを超えていたのを覚えてます。

遠投で60mくらいだったかな?

近所では早かった方です。

まぁありがちなノーコンでしたが笑

 

小学校5年生までは足も速くなく、50mで9.9秒・・・・笑

6年生になると急激に速くなり、50mで7.8秒とまずまずに。

陸上のリレーと水泳のリレーには区の大会で学校の代表のメンバーになれました。

 

なぜか急激に速くなりました笑

 

佼成学園中学校に進学

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杉並区の佼成学園に進学し、僕は野球をやるつもりでいました。

その時の身長が181cm 76kg くらいでした。

同級生の中でも1〜2を争う大きさでした。

右にいる同級生とは明らかにサイズが違いました 笑

 

 

それもあって入学式が終わった後、アメフト部とバスケ部にかなりの勢いで勧誘されました。

「君大きね〜」

などとやっぱり褒められるのは悪い気はするはずもなく、野球やる気マンマンでしたが、一瞬心が揺らいだのはまぎれもない事実です笑

 

小学校の時は肩が強かったので、ピッチャー、キャッチャー、外野をグルグル回りながらやっていました。

入部して、1年生の部員は20人くらいだったかと。

さすがに記憶は曖昧です。

全体のミーティングで各自のポジションの希望を聞かれました。

確か、僕は最初は外野と希望しましたが、キャッチャー希望が一人だったので、肩がとりあえず強かったので、僕も競争率の低いキャッチャー志望に変更しました 笑

 

ピッチャーでエースは西原口でした。

彼とバッテリーを組んで、杉並区の大会ではとてもいい思いばかりさせてもらいました。

2年生になってから5大会中3大会優勝、二大会準優勝と35戦33勝と驚異的でした。

ノーヒットノーラン2回、完全試合1回

僕らは無敵なんじゃないかと勘違いするような、充実の日々でした。

 

佼成学園高等学校に進学

佼成学園集合写真

高校に進学し、継続して野球部で活動していました。

中学の大会の最後の区民体育祭という大会は僕らでスタメンを決めていいと言われて、僕が先発しました。

その試合に遅れて見にきた監督が、高校の監督に伝えておくとのことで、伝えてくれたようで、高校からはピッチャーとして野球に打ち込む3年間を過ごしました。

 

1年生の時に 3年生が4人、二年生が4人、1年生が16人くらいが入部しました。

僕ら一年生は中学時は無敵だったとの勘違いで高校野球に入部。

 

その頃から僕は腰痛を発症していました。

後にこの腰痛が僕がトレーナーを目指すきっかけとなります。

 

一年時は先輩らの活躍もあり、夏2勝しました。

 

その後は先輩4人と、1年15人だけの新チームになりました。

 

結果からいうと、2年の夏は国分寺高校、2年の秋は二松学舎、三年の夏は帝京八王子に初戦で敗退しました。

 

僕の腰痛は腰椎4・5間の椎間板ヘルニアでした。

高校二年時に監督が藤田直樹監督に変わりました。

藤田監督は佼成学園を卒業後、立教大学、立教大学での助監督をへて、社会人野球のローソンにて監督

その後、佼成学園に戻ってこられました。

 

野球部といえば、水を飲むな、うさぎ跳びなどがまだ主流の頃でした。

社会人野球は高校野球より運動生理学などが進んでいたので、その辺の体制が一新しました。

 

ちゃんと水分を摂ったりするなどはもちろんのこと、超高度なサインプレー、僕らの中で大きく変わったことはトレーニングすることでした。

ウィダートレーニングラボのトレーナーがつきました。

今まで筋トレしたことなかったですし、走力や、瞬発力、パワーなどを測定したこともありませんでした。

 

僕はヘルニアで悩まされて、医者には「もうスポーツはやめた方がいい」と高校1年の時に言われたのをはっきり覚えています。

まぁ率直に

「俺にスポーツやめた方がいいとか、勝手に決められてたまるか!!」

「意地でもやってやるわ!!!」

って思っていました。

 

病院でリハビリにも通っていましたが、トレーニングとの出会いが僕を変えました。

筋肉がつき、足が早くなり、柔軟性も向上し、パワーも向上しました。

投げてはボールを強く投げられるようになり、ボールを打っても遠くまで飛ばせるようになりました。

 

何より、腰痛がよくなり、野球をずっと続けてこられてきました。

 

 

残念ながら佼成学園野球部で僕らの時は公式戦で勝てませんでした(笑)が、今でも仲の良い最高の仲間と切磋琢磨し、汗水流した日々はいうまでもなく、宝物です!

いつもあまりに楽しく、過去の野球部の話をするので公式戦で勝ったことないと話になると「え?弱かったの??」と驚かれますが、僕らは高校の時に強かったと言ったことはありません 笑

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最後の夏の初戦敗退

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引退直後の部室の前

 

しかし、現在僕がお世話になった藤田監督は今もいらっしゃり、チームを率いています。

そして優秀な後輩たちは部員約140人を要し、都内屈指の強豪校となっています。

後輩たちの活躍は僕らも元気になれますね!

 

当時のウィダーのトレーナーの和田さんの存在が僕がトレーナーを目指したきっかけとなりました。

トレーニングすることによって「カラダが変わる」ということに触れました。

まだトレーナーという言葉がまだ社会に今ほど浸透していない時代でしたが、人のカラダを変えることのできる素晴らしい仕事だと確信しました。

その後メディカルトレーナー専門学校メディカルトレーナー学科にて学び、トレーナーの道を目指しました。

 

専門学校から現在までの僕のことはまた書かせていただきます。

 

少しでも岡本隼人を知っていただければと思います。